考え事と備忘録と発見の集積。

地下10メートルで少女マンがについて考える経験は、今後の人生の転機となりえるか

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打ち合わせのため代々木に立ち寄り、汐留方面へ、
米沢 嘉博の『戦後少女マンガ史』(amazon)を電車の中で読みふける。

カバーなしでは少し恥ずかしい本だが、まあそこは気にしない、気にしてはいけない。
周囲の視線に耐え、戦後の女性・少女達の意識の変化と表現の変化について考えることは20代の男性にとって非常に大切なイニシエーションに違いない。

・・・
大衆小説、アメリカンホームドラマ、スポ魂、
東洋の魔女、グループサウンズ、宝塚、キャリアウーマン・・・
時代を象徴するアイコンが、文庫本の中で
女性意識の歴史上に慎重に配置されていく。



この本の中でとても気になる一文に出会ったので、
メモがわりに感想、レビューを書いておくことにする。

少女マンガのスタイルの普遍性に関して
米沢氏はこう答える。

少女達にとって真に少女マンガの夢へと誘うのは、
プリンセス、少女スターという言葉であり、流れるような長い髪、輝く瞳、
フリルのドレス、フランス風家具のディテールであった。
それらの内包する「少女」の夢に酔うことで
「少女」であろうとする想いこそ、読者なのだ。

本文引用

まず驚くべきは、
少女マンガの読者を「少女であろうとする想い」と表現していることだ。
それは「少女」ではなく「少女であろうとする想い」、
少女マンガの読者に年齢や性別は関係などないというのだ。

ああ、私は少女であったことなど1ミリ秒もないが、
これで少女マンガを好んで読む理由がわかった気がする。

そしてこう続く。
恋のときめきも愛のドラマも、不幸な少女も全て、
その想いを味わうための「少女らしさ」のひとつにすぎない。
-----少女のみが味わえる甘い夢とは、
つまるところ「少女」であろうとする意志が
選びとった「物あるいは言葉」なのかもしれない

本文引用

今度は「ストーリー」をサブ(らしさのひとつ)に追いやって、
少女の本質とはそうあらんとする意志によって生まれるのであり、
少女達の夢とはその意志によって選ばれた「オブジェクト」そのものかもしれないとこう言うのだ。

僕はこの文章を地下鉄の中で読んで、悟りを開きそうになった。

付随するストーリーそのものはシーンを作らず、
そうありたいと願う人たちよって選ばれた物や言葉が
シーンを作るということに、妙に納得したからだ。

少女マンガにとって必要なのは
物語ではない、デティールなのだ。
これはエンターテインメントのある一面の真実なのだろう、

登場人物に求められることは、
過酷な、または輝く物語の渦の中で、
「どのような顔でどのような台詞を話すか、
 そのときどんな格好で、どんな場所にいるのか」
こういった立ち居振る舞いなのだろう、

これは現実においても同じなのではないだろうか。

クリエイティビティについて
この系列に異論はないけど、これってクリエイティビティの過程そのものだよね?
クリエイティビティなんて大層な言葉を使うと大変だけど、
つまり人間が考えて、人に物を伝える過程は全てこういうことだと思うよ。

ゼロからものごとをつくりだすことが創造なのではなく、その人がインプットして、
選別して、編成して、アウトプットすることなのだと気づいたのは比較的最近。
そう考えると、いわゆる「クリエイティブ」にかぎらずあらゆる仕事に共通しているはず。
そうね、本質的な「クリエイティブ」なんてのは言葉の問題であって、
自分のあらゆる行為が全て「クリエイティブ」であることを自覚していることが、
大切だね、という話につながると思うんだ。どうかな?

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